熱血ライター 神山典士がゆく

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■名前 神山典士(こうやまのりお)
■職業 ノンフィクション作家
■経歴 1960年埼玉県生まれ。繁田保育園、豊岡小学校、黒須小学校、豊岡中学校、川越高校を経て84年信州大学人文学部心理学科卒業。同年4月ISプレス入社、86年12月同社退社。87年1月上海倶楽部設立。90年5月株式会社ザ・バザール設立。
■著書

96年「ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝」
   (小学館、第三回ノンフィクション大賞優秀賞作品)
96年「アウトロー」(情報センター出版)
96年「小室哲哉深層の美意識」(講談社)
97年「同上書」(講談社プラスα文庫)
90年「ジャパニーズMBAの挑戦」(日本能率協会)
91年「ひとりだちへの旅」(筑摩書房)
93年「Jリーグ立ち上がり戦略成功の秘密」(明日香出版社)
95年「海渡ものがたり」(淡交社)
98年「北朝鮮にスマッシュ」(メディアファクトリー)
99年「北京もう一つの家族」(ラボ教育センター)
00年「IT革命セカンドステージ」(PHP)
01年「『日本人』はどこにいる〜異文化に生きる武士道のこころ」
   (メディア・ファクトリー)
02年「奮い立て〜大阪近鉄バッファローズの奇跡」(実業の日本)
02年「生きること演じること」(ぴあ)(毎日新聞連載演劇コラム)
03年「35歳までに仕事運をつかむ魔法の言葉」(アスコム)
03年「ドキュメント・ローン地獄からの生還」(講談社+α文庫書き下ろし)
04年「実録編、借りた金は返すな」(八木宏之氏と共著、アスコム)
04年10月「勝負あり〜猪熊功の光と影」(井上斌氏と共著、河出書房新社)
04年 11月「組織に頼らずに生きる」(小杉俊哉氏と共著、平凡社新書)
05年「初代総料理長サリー・ワイル」(講談社、日本のフランス料理シリーズ第一弾)
06年 「感じて動く」(ポプラ社、佐渡裕著、構成)
07年「日本の職人」(河出書房新社)
08年「情熱のシェフ、松嶋啓介」(講談社、日本のフランス料理シリーズ第二弾)
09年「人生の大切なことはすべて雀鬼に学んだ 桜井章一の超教育実践」(竹書房)

■連絡先

株式会社 ザ・バザール
事務所、〒170−0011豊島区池袋本町4−47−12−1603、
TEL/03-5950−4848
FAX/03-5950−4847

アトリエ、〒358−0023、入間市扇台4−1−7

電話、04−2968−9242

ファックス、04−2968−9243
※連絡はE-MAIL/mhd03414@nifty.comにお願いします

 

■大河
 プロフィール

こうしてみると、自分でも随分いろいなことを書いてるなぁとおもっちゃいますよねん。「あなたは何が専門ですか」と聞かれることがたびたびあるるんだけど、「スポーツです」とか「経済です」とか言い切れない悲しさがあるから「人間です」なんて言ったり、面倒くさいと「自分の興味です」なんて言っちゃったり。あげくは「自分自身です」なんてきっぱりっ。相手は「はぁ?」なんてきょとんとしているけれど、自分でも何が何だかわからずに興味が向くままに書いてるんだから仕方ないっす。今年はこれに「勝負あり〜金メダリスト猪熊功の光と影」(河出書房新社、井上斌氏との共著)と「自立の壁」(仮題)(平凡社新書、小杉俊哉氏との共著)がでます。放っとくと年間三、四冊は書くことになっちゃって「なにやってんの?」ということになりかねないので、まぁ、抑えて抑えてという感じ。毎月数冊出しているナカタニなんたらみたいのもなんだかなぁと思うしね。でも、書きたいものは書きたいし、ちゃんすは逃さず、かな。

大河プロフィールその1・「シェーン」という名の生活スタイルへの憧れ

そもそもこの仕事の事を意識したのは大学の終わりのころだったでしょうか。二二歳かな。「興味が向いた対象に会いに行って数カ月か数年か数日か一緒に過ごして酒でも飲んで、その結果として一つの物語を紡いだ末にいづこともなく去っていく」。つまり、「シェーン」ですよ。カッチョイー。その前年、約半年間西ヨーロッパを一人旅した経験も大きく影響しているかもしれません。とにかくそういう生活に憧れて、ノンフィクションだったらそういう事も可能なのかと思ったんですね。ま、今は、その作品や仕事のレベルは別としてほぼそんな生活になってるのかな。どーだろう。シェーンほどかっこよくはないけれど。んで、僕は卒論がないコースにいたので、一応卒論がわりに大学の劇団のルポを書こうと思って、信州大学の劇団山脈の友人知人にお世話になったのが最初の作品でした。今をときめく劇団道学先生の青山勝が部長だった時代です。(むふふ、その割に俺は全然尊敬されていなかったというのが青山のトラウマになっているのを最近知ったっすが)。書き上げたのは四〇枚程度だったかなぁ。「春を呼ぶ風景」ってタイトルでした。公演の準備から稽古、本番までを追ったルポ。あれは活字になったんだっけかな。原稿用紙の束はどこかにあるはずだけれど。あれ、どうしたろう。ま、そんなこんなで役者たちと仲良くなったら、後輩が「次の公演は神山さんの役もあります」なんて言い始めて、卒業の年の秋だったかな、テント公演に「出演(じゃーん)」したこともあったな。役は「怪傑赤マント」。もー名前からしてなんだかなぁでしょ。最初に登場して舞台で切られてずーっとそこで寝ている役でしたん。とほほ。
 もしあの時サッカーが書きたいとかビジネスが書きたいとかクラシックが書きたいとか、そういう専門性があったらまた路線も違っていたのかな。どうなんだろ。ま、今のスタンスも嫌いじゃないし、今となってはこのスタイルを貫くしかないんだけどね。(つづく)

大河プロフィールその2 ・赤貧生活

「シェーン」計画が狂ったのは、というかあまりに杜撰だったと気付いたのは、社会に出る直前のことでした。 「ありゃ、こんなはずじゃなかったな」。そう思っても後の祭、僕はシェーンへの最初の一歩をどう踏み出していいかわからずに、コンクリートの街を真新しいジャケットとネクタイのいわゆるリクルート姿で右往左往しなければならなかったのです。社会に出るに当たってまず問題は、シェーンのアラン・ラッドになるまえに、収入をどう得るかということでした。「フリーなんかで食べて行けるわけがないじゃないの」。公務員である両親はまずそう言いました。二人は20数年間、毎月月末にはきちんと給料が出、年に二回のボーナスがあり、夏と春と冬には休みがあってベースアップもある社会を生きてきたんですから、その感覚は当たり前のことです。いや両親だけでなく、自分でもいきなりフリーになったってどうやっていいかわかりませんでした。「神保町あたりの飲み屋に居ると編集者がやってきて、そこで仕事をくれるらしいよ」とか「まず書いたものを出版社に持って行けば読んでくれてそこから仕事になるらしいよ」とか、まことしやかなことを言う友人も居ました。とはいえ、僕は信州の松本の大学にいるのですから、そうそう簡単に東京になんて出て行けません。当時時折アルバイトしていた渋谷の情報センターの社長の紹介でマガジンハウスの編集者にあってはみたものの「ふーん、フリーランスのライターになりたいの。ま、がんばって」なんてあしらわれるだけで、だーれも助けてはくれません。当たり前ですよねん。何者かもわからないんだから。いったいどうしたらいいんだろう。そう悩んだ僕は、どうしたんだっけ−−−。そうだ、2つのアクションを起こしたのでした。一つは、「ルポルタージュ・ライター」という名刺をつくったこと。もう一つは、もう一本まとまった作品を書いたんでした。名刺は友人のデザイナーに頼んで、確か名前を神山蘭Run Kooyamaにしたんだよな。できあがったらこっぱずかくしって、使えませんでしたが。たはは。もう一つの原稿の方は、当時松本空港のジェット化反対運動の論陣を張っていた地方月刊誌に発表してもらたっことを、今思い出しました。とはいっても、何を書いたのかは詳細に思い出せないのですが。でも明確に覚えていることもあります。その発行人兼編集長夫妻が土蔵に住んでいたことです。ま、当時松本で土蔵住まいというのはそれほど珍しくはない、というか学生下宿には土蔵は多かったんです。立派な土蔵も残っていましたからね。でもこの夫妻は、単なる土蔵住まいではありませんでした。僕が原稿の相談や打ち合わに行くと、奥さんがビールを近所の酒屋から一本ずつ買ってきてくれました。それを恭しく開栓して、僕と編集長のコップに注ぎます。二人はある程度夢中になって原稿のことを話しているので、あっと言う間に飲み干します。それを繰り返してビンの中のビールが八割方なくなると、彼女はまた静かに土蔵の引き戸を開けてビールを買いに行くのです。それは習慣ではなく貧困なのだと気づくのに−−−なんてもったいつけなくても、気づきますよね、普通。そんだけ貧乏だったんです。あぁ、出版界に入るというのはこういうことなのかと、僕は朧げに思った記憶があります。そしてその通り、僕自身の赤貧洗うが如し編も、ここから始まるのでした。じゃ〜ん。(つづく)

大河プロフィールその3・「自立」への旅、人生の黒帯

なぜフリーランスだったのか。それは、シェーンのスタイルへの憧れと同時に、もう一つ、僕の中にあるとても貴重な鉱脈からきたとても素直な答えだったということもできます。
最近、そのことを文章に書く機会がありました。ビジネスを通して人は如何に「自立」するかというテーマの近著のあとがきに書いた文章です。たぶんこの中に、僕が今のスタイルを選び取った理由もあるはずです。

 自立とは何か。私にとってその言葉は、瞬時に一四歳の夏の体験を思い出させる。
 その時私は、広大なサンドヒルが広がるアメリカ中西部ネブラスカにいた。人口約五〇〇人、肉牛数万頭、家の郵便受けにいくまでにバイクで四、五分は走らないといけない広大な農場を持つ農家にホームステイして、毎日牛の世話やアルファロファと呼ばれる餌を収穫していた。
 毎朝五時。同い年のホストと共に牛小屋に出かけていく。数百頭の牛の全てが小屋で寝ているわけではないが、体調の悪い牛や何故か選ばれた何頭かは大切にそこで夜を過ごしていた。
 もちろんかろうじて不定詞を使える程度の語学力では、生活も農作業も遊びも事の詳細はわからない。何はともあれ見よう見まねでホストと同じ作業を続けるのが関の山だ。とはいえ朝の作業を怠ると、その日一日気まずい思いをしなければならない。だから私も朝は必死だった。
 ところが、そうやって一週間二週間と過ごすうちにあることに気付いた。
 たまの日曜日、私たちは連れ立って街に出かけた。四角い芝生の広場の周囲に何軒か店があり、映画館が一軒ある程度の小さな一角だ。私たちはそこで同世代の友人たちと合流し、連れ立ってコーラとポップコーンを買って映画館に入り浸ったものだ。その時、私は親から貰ったなけなしのドル札と小銭を握りしめていた。家族や友人へのお土産の費用を考え、前から欲しかったカウボーイブーツの値段をそれとなく調べ、何を幾らで買おうかと計算しながら店のウインドーを眺めていた。
  ところがホストを見ていると、財布を持っていない。欲しいものがあるとポケットから横長の手帳の様なものを取り出し、スラスラと名前を書いてピッと切る。そしてそれをレジに差し出すと、欲しいものが欲しいだけ手に入る。映画の入場券も同じだった。
 はたしてあの手帳はなんなのか? 当時の私にはそれは魔法の手帳に見えたものだ。
「僕はあの子牛を育ててカウンティーフェアで売ってそれを次の年の小遣いにしているんだ」
 かろうじてホストが操る「魔法」の理由がわかったのは、あと少しでホームステイも終わる頃だった。何かの拍子に私が手帳の事を尋ねると、ホストはいつもの陽気な顔を少し固くしながら、そう教えて来れた。
 あぁ、そうなのか。全てに合点がいったのはその瞬間だった。
 もちろんそれは「小切手」のシステムに、ではない。毎朝毎朝、何故ホストが特別な一頭だけを一生懸命ブラッシングしているのか。病気にならない様に餌も吟味し、大切にしているのは何故なのか。その理由に納得がいったのだ。
「フェアで高く売れたらたくさんのお小遣いが手に入る。万が一途中で病気で牛が死んだら、次の年のお小遣いはなしなんだ」
 ホストの言葉が、いくつかの単語をつなぎ合わせて納得できた。そして次の瞬間、私の心に広がったのは、顔面から火が出る様な「恥ずかしさ」だった。
 同じ地球上で同じ世代の子どもが自分の力で生きている。対して私たちは、親の金で生活し学校にも行かしてもらい、それでいて親に反抗ばかりしている。はたしてこれでいいのか。
 単純だけれど、そう思った。帰国後、私は「生徒会の自治」を主張して生徒会長に立候補した。自分たちの手で学園祭をやろうと言って、夜遅くまで仲間たちと奮闘しもした。当時職員室では「あいつが黒幕だ」と睨まれていたというのは、ずっと後から聞いたことだ。中学二年の冬から三年の春に書けては新聞配達のアルバイトもした。毎朝日の出の頃に起きて、新聞を何十部か配って歩いた。高校二年の時には「自分で働いて定時制に通う」と言い出したこともある。大学で地方に出たのも、自活したかったのが大きな理由だった。もちろんその時はバイトをしていたとはいえ仕送りも受けていたのだからお笑いなのだが、今こうやってフリーランスの道を歩んでいるのも、あの時感じた「自分で生きる」ということの延長なのだろうと思う。
 とはいえ、私は組織を否定しているわけではない。独りで生きて行ける者同志が手を組むならいい。気持ち悪いのは、独りでは生きて行けない者が群れることだ。
 世界中どこの街ででも独りで生きて行ける人間。私はそれを、人生の黒帯と呼んでいる。(つづく)

大河プロフィールその4「やってらんねぇよ」

社会に出て間もない二四、五歳の頃の事。とにかく書きたくて書きたくて仕方ない時期がありました。当時僕は、神保町の路地裏にある社員二〇名程度の編集プロダクションに勤め、近所にある小学館のテレパルというテレビ雑誌の記者をやっていました。毎日毎日担当である赤坂のTBSにつめ、新番組の情報や番組改編のニュース、トピックス等を取るのが役割です。とはいえ、ルーチン・ワークは番組表をつくることでした。新聞の最終面にある、あれです。当時テレビ雑誌界では新参者だったテレパルは、常識を無視して二週間番組表をウリにしていました。だから校了前になると、何百枚も番組表を書かされるのです。 「月曜ドラマスペシャル、なんたらかたら殺人事件、今日もなんたらに美人人妻の悲鳴がなんたら」「クイズダービー、巨泉がなんたらでケイコ動転!」「八時だよ! 全員集合、ドリフの爆笑なんたらかたら」。 そんな言葉で表を埋めていく作業です。もちろんその表記が正確でなかったら読者に叱られてしまうのですが、面白い仕事のわけがありません。僕はいつもその作業をまとめて数日間でやってしまい、あとはたいていTBSから直帰して酒場に直行していました。とはいえ その中であるページの中に一つだけ、書きたいと思うコーナーがありました。それは、スポーツ番組だけを集めたページの片隅にある、今思えば400字3枚半程度のコラムでした。ある時僕は先輩にお願いして、そのコラムの1回をもらうことに成功しました。おりしも大相撲は高見山の引退報道で沸いていた時でしたから、国技館に詰めて彼の動向を書こう。僕はそう決めました。いや、素材なんて何でも良かったんです。ただ「表」ではなく「文章」が書きたかったのだから。当然、書けるか書けないかなどは全く振り返らずに、僕は遮二無二取材を始めていました。
                             ※
面白かったのは、国技館の前で高見山の乗るタクシーの到着を待っていた時の事です。彼が車を降りると数人の番記者が駆け寄って来ます。僕も負けじと身体をその輪の中にねじり込みます。すると高見山が「ウーアーウーアー」と重い吐息を吐きだすのです。それはとても言葉とは言えない、どう聞いても「喘ぎ」に近いものでした。 すると番記者たちは、一瞬立ち止まります。そして最も近くでその喘ぎを聞いた記者が「××××」と正確な日本語に「翻訳」します。はたしてそれが正しいのか誤訳なのかは誰にもわかりません。そんなことよりもむしろ、次の瞬間には再び歩き続ける高見山に追いついて、次の喘ぎを聞くことのほうが大切でした。 そうやって翌朝の新聞を見ると、各紙に引退に対する彼の考え方や親方の意見が詳細に載っていました。実に見事な連携技でした。 「ふ〜ん、こんなことでニュースはできているのか」。僕は そう唸ったものです。
そして僕も書きました。わずか三枚半程度のコラムに何時間も何日もかけ、締め切りのギリギリまで粘って書いた記憶があります。たぶんあの時の僕にインタビューしたら、こう言ったでしょう。「コラムじゃありません。小説のつもりで挑みました」、と。そしてそのコラムを期に、確か僕はフリーランスになることを決めたのでした。                              ※
その決心には実は一つの裏話があります。その号の校了直前になって、僕はコラムの内容が微妙に変わっている事に気付きました。「あれ、なんか文章が変わっていますね」。先輩編集者に聞くと、「あぁ、デスクが手を入れたんだ」と言います。「えっ、だってあのデスクは番組表担当で、このコラムは関係ないはずでしょう」。そう言っても後の祭でした。 「やってらんねぇよ」。僕はそう呟いて、フリーになることを決めたのです。もともとシェーンの生活に憧れていたのだから、早晩同じ決断をしたはずですが、時期が思ったより早まったのは今考えればそのデスクのお節介のお陰だったとも言えます。 でも正直に言うと、最後の出社の日のことを覚えていないのです。確か年末に辞めたはずだから、そのまま酒をあおってしまったのかもしれません。フリーになった最初の日なんていうのも覚えていません。会社員時代からなし崩しにもう色々な仕事を始めていたのかもしれません。「あの日雨が降っていたから」なんて、かっこいい理由が語れればいいのですが。「やってらんねぇよ」じゃ、なんかやっちゃばのアンチャンみたいですよね。ふふふ。 ま、こうして僕はフリーランスになりました。そして僕は、仕事としても書き始めましたが、それとは関係ない場でも「書く」ことを始めます。今にして思えば、そのことが僕には大きなことでした。それは何だったのか。そのことはまた今度。(続く)

 というわけで、この大河プロフィール、ひつこくながーくいつまでも続きまっせ。僕のご友人知人の皆様、もしかするとご登場いただくことになりかねませんので、お許しを。承諾なんか得ないかんね。むふふ、覚悟してちょ。